わかること〜思考の整理学・再読〜

最近、思考の整理学を再読している。この本は、過去に地元の書店で平積みされており、帯の表記が興味深かったので購入したものである。購入後、そのまま半年ぐらい積ん読していたためすっかり忘れていたものの、ある日ふと本棚からこの本を見つけた。その日から少しずつ読み、様々な部分にひどく感銘をうけたことを覚えている。

思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房
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今日はこの本の「不幸な逆説」という章より。わかることは、考えて理解して、そのことについての知識を自分のものとすることである。自分自身がまずそうなのだが、最近の風潮として、すぐに答えが出ないものはダメだと決め付ける傾向はないだろうか。
問題を提示し、そして答えを提示する。問題と答えはセットとして教育するのである。過去の教育現場では、まず答えは教えなかった。
学問の場でも、職業訓練の場でもすぐに答えを教えることはほとんどなかった。

かつて、漢文の素読が行われた。六二時も読めないような幼い子供に、四書五経といった、最高度の古典を読ませる。読ませるというのは正確ではない。声を出して朗誦するだけである。先生は意味をご存知だが、習う子供には、ちんぷんかんぷん、何のことかさっぱりわからない。しかし、漢文の素読では、意味を教えないのが普通で、だからこそ、素読というわけである。いくらこどもでも、ことばである以上どういうことか、意味が気にならないわけがない。しかし、教えてもらえないのだから、しかたがない。我慢する。その間に、早く意味もわかるようになりたいと思う心がつのる。教えないことが、かえっていい教育になっているのである。

答えを目の前に用意せず、あえてじらすことで「知りたい」という欲求を高めているのである。話は変わるが、ギリシャ人が輝かしい文化を築き上げたその理由について、筆者はこう説いている。

ギリシャ人が人類史上もっとも輝かしい文化の基礎を築き得たのも、かれらにすぐれた問題作成の力があり、”なぜ”を問うことができたからだといわれる。

知りたい、理解したいという欲求が高まると、「なぜ」を問うことが多くなる。様々な事柄に「なぜ」を問う。
その過程こそ、問題作成力、延いては問題解決力を向上させる鍵となるのだろう。

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